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祖母の遺影

Added on by Atsushi Hirao.

数週間前、祖母が亡くなりました。

遺影には私が撮った写真が使われました。

子供6人。孫16人。そしてひ孫多数。子供の頃、祖母の家はいつでも子供が溢れていた記憶があります。

私は特別おばあちゃんっ子という訳ではなかったし、祖母にとっても私は16人いる孫のうち特別な一人という訳ではなかったと思います。
でも今までの人生で一度だけ、じっくりと祖母と向き合う時間がありました。

5年前の夏、私は大学の卒業論文で過疎地域に関する調査をしていました。
当時祖母が一人暮らしをしていたのは長野県北部の人口2000人ほどの小さな村で、調査対象としてはぴったりの場所でした。

そこで私は祖母の家に泊まり込みで調査をすることにしました。

祖母との奇妙な二人暮らしが始まりました。


祖母の家は築100年以上のボロ屋という言葉がぴったりの家で、親戚からは「本当にあんなところに住めるのか、そんなことを言い出した孫は今までいない。」とまで言われました。
もちろん、近所にコンビニはおろか、スパーもないので、数日に一度、叔母が食材を届けてくれることになり、それを私が調理することになりました。

今まで祖母とここまで長い時間、2人で過ごしたことはありませんでした。

2週間も2人きりで過ごすと、いくら祖母と孫でもイライラやギクシャクすることが多少あります。
と同時に、今まで自分は祖母ついて知らなかったことがたくさんあったのだと気付かされました。

晩年は田舎のボロ屋で一人暮らしをすることも難しくなり、親戚の家に身を寄せていた祖母。
その祖母が最後に過ごした家での日々を撮影できたことは私にとって大切な記憶となりました。

大げさかもしれませんが、遺影は亡くなった方の一生を代表する写真だと思います。
その写真を自分の手で遺せたことに孫として、そして写真家として、よかったと思っています。

もっとも安全で、美しく、退屈な場所

Added on by Atsushi Hirao.

私は少年時代をロサンゼルスのRancho Palos Verdes という場所で過ごしました。
ロサンゼルスの南側、切り立った崖が海に面した半島にある高級住宅街です。日本から来た仕事でやってきた家族の大半がここに住んでいたと思います。

この街はとても安全で、美しく、そして退屈な場所でした。

車が無ければどこに行くこともできず、通学も両親が車で送り迎え。
とても狭い世界に生きていた10年間でした。

 

高校生になって日本に帰国し、大学に進学すると、自然と色々な場所に旅をする様になりました。

Kathmandu, Nepal, 2008

そして大学4年の夏。
就職活動もしたようなしていないような状況で留年が決まり、貯金でもしようと住み込みの仕事を探すことにしました。それもせっかくなら少し変わったところがいいと思い、思いついたのが山小屋でした。

山登りをする家庭で育っていは言え、自主的に山へ向かったことは今までありません。そこで母に相談すると、「日本で一番素敵な小屋」として紹介されたのが北穂高小屋でした。
特に下調べをする訳でもなく小屋に電話してみると、ちょうどアルバイトに欠員がでたというので即採用が決まりました。

まさかそのあと5年もそこで写真を撮ることになるとは想像もしていませんでした。

 

標高3106mの山頂にポツリと建つ小屋では、雨水は超貴重品。食料・物資を運ぶヘリコプターは天候次第。山岳事故や遭難も明日は我が身。食事の用意から簡単な土木工事まで、何でもあの空間でやらなければなりません。

でもそれは私にとって、とても生きた心地のする生活でした。

最初のブログ 自己紹介

Added on by Atsushi Hirao.

写真家の平尾敦です。

今日からブログを始めます。

初めて見る方のために自己紹介から始めるのが普通かと思います。でも私は自己紹介が小さい時から苦手です。

私は長野県茅野市で生まれ、1歳の時にロサンゼルスに引っ越しました。物心がつく頃にはアメリカの幼稚園に通い、自分と境遇が似た日本人の子供たち、それからアメリカ人の子供たちと遊んでいました。

私の自己紹介に対する苦手意識はこの頃から始まっています。私の「アツシ」という名前を1回目で正しく覚え、発音できた外国人の方はいままで一人もいません。だいたい「A Sushi?」と言われ、もう自分の名前なんて寿司でもなんでもいいから話を進めてくれと思います。

日本ではそんな問題がないかと言えばそういうわけでもなく、「どんな漢字で書くの?」と口頭で聞かれれば、説明に困り、平敦盛とか、敦煌とか、敦賀湾とか言ってみても地理歴史に詳しい人以外はピンときてくれません。郵便の宛名が「平野淳」と書いてあっても、もう驚かなくなりました。

そして私が5歳の時、家族で長野に帰国、10歳でまたLAに戻り、15歳で東京の高校に進学しました。そのころから写真に興味をもち、大学在学中にアルバイトした山小屋で本格的に写真作品を撮り始めました。2009年から2013年までここで働く人たちの姿を撮り続け、その後1年間、ニューヨークのInternational Center of PhotographyでPhotojournalismとDocumentary Photographyを学んだ後、2015年からロサンゼルスに拠点を移しました。

ここまでかなりの早足で説明をしましたが、いつもは話が終わるまでにたくさん質問されます。
「アメリカ人なの?」「ネイティブでしょ?」「日本人学校?なにそれ?」「大学でなにを?地理...学?」
「山小屋ってなに?どこにあるの?高いの?」

そしてようやくたどり着いた本題に入った時「平尾さんはxxな方なんですね。」なんて言われると、「本当はそんな簡単な話じゃないんだけどな」と思いつつも笑ってごまかしてしまうこともあります。

そう思って何年も前に作品にしてみたこともありました。

今改めて見てみると、至らないところが多々あります。ただ、当時から自己紹介に対する苦手意識の裏側にあるものはなんなのかという疑問について、考えていたのではないかと思います。人に対してあやふやにしてきたものが何なのか、いつからか自分でもなんなのか分からなくなったのかもしれません。

そんな中、自分の原点、子供時代を思い返してみると、10年も過ごしたロサンゼルスのイメージは「車窓」しかありませんでした。

ドアガラスの向こう側の世界を自分で見てみたい。

それがロサンゼルスに戻ってきた理由であり、写真を撮る続ける理由なのかもしれません

 

次回からは写真付きでお送りしたいと思います。