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Housing Project

Added on by Atsushi Hirao.

ハウジングプロジェクト、単純にプロジェクトと略されることもあるアメリカの低所得者向け公共住宅。
その中でもアメリカ最大の規模を誇るのがマンハッタンからイーストリバーを挟んだ対岸に位置するQueens Bridge Housing Project. 

ある日、プロジェクトの近所で綺麗なシベリアンハスキーを連れた男性の写真を撮りました。
そして2ヶ月後、プリントした写真を手渡して今度は家の中で撮らせてもらうようにお願いしました。

暖かく迎えてくれた2人の写真を撮ったり、話を聞いていると、奥から古ぼけた写真が出てきました。
傷や汚れがつき、色あせた古い写真には若かった2人の姿が写っていました。私はその写真を預かって修繕をすることにしました。

クリスマスにキレイになった写真をプレゼントすると、2人は大変喜んでくれました。

以前書いたブログ 祖母の遺影 でも似たようなことを書きましたが、「写真の記録性」と「人間の人生」を交差させるお手伝いができた気がしました。

 

トーマス家
リンジー 72歳 アラバマ生まれ
ジョセフィン 80歳 英国生まれ
チャーリー 8歳 ニューヨーク生まれ シベリアンハスキー
2人は1962年に結婚、これはキング牧師が "I have a dream ..." で始まる演説を行う1年前のこと。
ジョセフィンにとってリンジーは3人目の夫であり、またリンジーにとって彼女は2人目の妻だった。
プロジェクトには2007年から暮している。

Thomas Family: seventy-two year old Lindsey, born in Alabama; eighty-year old Josephine, born in Britain; eight-year old Charlie, Siberian Husky born in New York. Lindsey and Josephine got married on 1962, Lindsey is third husband, and Josephine is second wife. They have children between their former spouses, and now they have Charlie.

Lindsey retired his job as a custodian of a school for autistic children, and moved to Queens Bridge Housing Project on 2007.

 

 

ライトルームでモノクロ化する方法

Added on by Atsushi Hirao.

私が写真を始めたころは、デジタル一眼レフはまだまだ高校生に買えるような値段ではありませんでした。でも、写真集で見たあんな写真が撮りたい、プロと同じ条件で写真を撮れるのはフィルムカメラ、それもモノクロの自家現像・自家プリントしかない!というのが私がモノクロを始めたきっかけでした。

そして今はフィルムカメラを使うことも減り、モノクロの撮影・印刷も大部分をデジタル化しました。
そこで今日はデジタルのモノクロ変換に関してお話しようと思います。

そもそも人間の目というのはカラーで見ているわけで、モノクロというのは不自然なものです。ということで本来モノクロ写真というのは自分が実際に見ている色をモノクロにどのように変換するかというのを考えながら撮影しなければならないものです。


モノクロ風景写真の巨匠、アンセル・アダムスは撮影時に様々なフィルターを使い分けていたことが知られています。
またアラーキーこと荒木経惟さんも、モノクロで女性を撮るときは必ず口紅を塗るように指示したそうです。そうしないと唇が肌色と同じ明るさで、血の気が引いたように見えるからです。

ではこれがデジタルカメラになるとどうなるか。
プリセットを使い、ボタン一つでモノクロ変換という方も多いのではないでしょうか。
それではもったいないので私のやり方をご紹介します。
 

せっかくヨセミテの写真が手元にあったのでこれを使います。
私はLightroomを使って現像していますが、他のソフトでも同様のことができると思います。
下の画像ではすでに明るさやコントラストの調整が終わっています。

現像モジュールの白黒ミックスを選択すると早速画像が白黒に変換されます。

次にスライダーを動かしてみます。
スライダの左側に色の名前が書いてありますが、レッドのスライダを動かせば、写真の赤い部分だけが暗くなったり明るくなったりします。ここで全てのスライダを極端に両方に動かしてみます。
そうすると、どのスライダを動かせば写真のどの部分が変化するかわかると思います。

今回の場合は空を暗めにしたかったので、ブルーとアクアのスライダーがマイナス方面に移動してあります。

ここで重要なのがスライダのバランスです。
よく見ると、スライダが蛇がうねるような曲線を描いているのがお分かりだと思います。
これは隣り合う色のスライダを大きく引き離すと、その中間の階調が無理に引き伸ばされてしまうからです。

そしてもう一つ注意しなければいけないのが、レッドとマゼンタは本来隣り合う色ということです。

イメージとしてはこんな感じです。つまり、レッドとマゼンタの数値がかけ離れたものにならないように注意する必要があります。

 

このようにデジタル写真のモノクロ化は以上の点に気をつけながら、背景のトーンから被写体を浮き上がらせます。あまりやりすぎると階調が崩壊するので程ほどに。最後はPhotoshopでマスクを使って仕上げます。

 

デジタルになって覆い焼きも焼きこみも試行錯誤がしやすくなりましたが、いいプリントを作り上げるのは簡単ではないですね。

Downtown LA

Added on by Atsushi Hirao.

最近NYの話ばかりなので、少しLAの話をしたいと思います。

私が始めて写真を撮り始めたのが中学2年生か3年生ぐらいの時でした。
父がカメラを新調し、それまで使っていたペンタックスの一眼レフが私のものになりました。

当時はLAに住んでいたので、庭の落ち葉を撮ったり、近所の公園で夕日を撮りに行ったりして「自分のカメラ」に夢中になっていた時期でした。といっても中学生の行動範囲は限られていました。

 

それから10年後、私はカメラを片手にロサンゼルスのダウンタウンをウロウロしていました。

居候先の姉とケンカをして、なんの当てもなくタクシーを呼んで家を飛び出し、ダウンタウンの安ホテルに向かったのです。

そして特にやることもなかったので、それから数日間ホテル周辺の街を撮ることにしました。
ビジネス街からスキッドロウ周辺までダウンタウンを撮り歩いる姿を、10年前は想像すらできなかったと思います。

Peephole New York

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続けてICP時代の話。

通常の講義とは別に週末に特別講師を招いたワークショップもありました。

特に報道写真家Frank Fournierのワークショップで、参加する学生が口々に「いまどうしても課題をする時間がない」といった時、彼の言った一言が印象的でした。

「写真なんて100分の1秒もあれば撮れる。」
 

そんなことを言われてしまうと人間なんとかしてやろうと思うもので、できたのがこのシリーズ。

当時住んでいたNYの部屋が3畳ほどしかなく、手持ちの広角レンズでは全体を写しきれませんでした。
(この部屋に月$750払っていたからNYは恐ろしい街。それもマンハッタンではなくクイーンズの話。)

そこでAPS-C用のレンズをフルサイズのカメラにつけてみてのが始まりでした。

 

 

 

祖母の遺影

Added on by Atsushi Hirao.

数週間前、祖母が亡くなりました。

遺影には私が撮った写真が使われました。

子供6人。孫16人。そしてひ孫多数。子供の頃、祖母の家はいつでも子供が溢れていた記憶があります。

私は特別おばあちゃんっ子という訳ではなかったし、祖母にとっても私は16人いる孫のうち特別な一人という訳ではなかったと思います。
でも今までの人生で一度だけ、じっくりと祖母と向き合う時間がありました。

5年前の夏、私は大学の卒業論文で過疎地域に関する調査をしていました。
当時祖母が一人暮らしをしていたのは長野県北部の人口2000人ほどの小さな村で、調査対象としてはぴったりの場所でした。

そこで私は祖母の家に泊まり込みで調査をすることにしました。

祖母との奇妙な二人暮らしが始まりました。


祖母の家は築100年以上のボロ屋という言葉がぴったりの家で、親戚からは「本当にあんなところに住めるのか、そんなことを言い出した孫は今までいない。」とまで言われました。
もちろん、近所にコンビニはおろか、スパーもないので、数日に一度、叔母が食材を届けてくれることになり、それを私が調理することになりました。

今まで祖母とここまで長い時間、2人で過ごしたことはありませんでした。

2週間も2人きりで過ごすと、いくら祖母と孫でもイライラやギクシャクすることが多少あります。
と同時に、今まで自分は祖母ついて知らなかったことがたくさんあったのだと気付かされました。

晩年は田舎のボロ屋で一人暮らしをすることも難しくなり、親戚の家に身を寄せていた祖母。
その祖母が最後に過ごした家での日々を撮影できたことは私にとって大切な記憶となりました。

大げさかもしれませんが、遺影は亡くなった方の一生を代表する写真だと思います。
その写真を自分の手で遺せたことに孫として、そして写真家として、よかったと思っています。

もっとも安全で、美しく、退屈な場所

Added on by Atsushi Hirao.

私は少年時代をロサンゼルスのRancho Palos Verdes という場所で過ごしました。
ロサンゼルスの南側、切り立った崖が海に面した半島にある高級住宅街です。日本から来た仕事でやってきた家族の大半がここに住んでいたと思います。

この街はとても安全で、美しく、そして退屈な場所でした。

車が無ければどこに行くこともできず、通学も両親が車で送り迎え。
とても狭い世界に生きていた10年間でした。

 

高校生になって日本に帰国し、大学に進学すると、自然と色々な場所に旅をする様になりました。

Kathmandu, Nepal, 2008

そして大学4年の夏。
就職活動もしたようなしていないような状況で留年が決まり、貯金でもしようと住み込みの仕事を探すことにしました。それもせっかくなら少し変わったところがいいと思い、思いついたのが山小屋でした。

山登りをする家庭で育っていは言え、自主的に山へ向かったことは今までありません。そこで母に相談すると、「日本で一番素敵な小屋」として紹介されたのが北穂高小屋でした。
特に下調べをする訳でもなく小屋に電話してみると、ちょうどアルバイトに欠員がでたというので即採用が決まりました。

まさかそのあと5年もそこで写真を撮ることになるとは想像もしていませんでした。

 

標高3106mの山頂にポツリと建つ小屋では、雨水は超貴重品。食料・物資を運ぶヘリコプターは天候次第。山岳事故や遭難も明日は我が身。食事の用意から簡単な土木工事まで、何でもあの空間でやらなければなりません。

でもそれは私にとって、とても生きた心地のする生活でした。

最初のブログ 自己紹介

Added on by Atsushi Hirao.

写真家の平尾敦です。

今日からブログを始めます。

初めて見る方のために自己紹介から始めるのが普通かと思います。でも私は自己紹介が小さい時から苦手です。

私は長野県茅野市で生まれ、1歳の時にロサンゼルスに引っ越しました。物心がつく頃にはアメリカの幼稚園に通い、自分と境遇が似た日本人の子供たち、それからアメリカ人の子供たちと遊んでいました。

私の自己紹介に対する苦手意識はこの頃から始まっています。私の「アツシ」という名前を1回目で正しく覚え、発音できた外国人の方はいままで一人もいません。だいたい「A Sushi?」と言われ、もう自分の名前なんて寿司でもなんでもいいから話を進めてくれと思います。

日本ではそんな問題がないかと言えばそういうわけでもなく、「どんな漢字で書くの?」と口頭で聞かれれば、説明に困り、平敦盛とか、敦煌とか、敦賀湾とか言ってみても地理歴史に詳しい人以外はピンときてくれません。郵便の宛名が「平野淳」と書いてあっても、もう驚かなくなりました。

そして私が5歳の時、家族で長野に帰国、10歳でまたLAに戻り、15歳で東京の高校に進学しました。そのころから写真に興味をもち、大学在学中にアルバイトした山小屋で本格的に写真作品を撮り始めました。2009年から2013年までここで働く人たちの姿を撮り続け、その後1年間、ニューヨークのInternational Center of PhotographyでPhotojournalismとDocumentary Photographyを学んだ後、2015年からロサンゼルスに拠点を移しました。

ここまでかなりの早足で説明をしましたが、いつもは話が終わるまでにたくさん質問されます。
「アメリカ人なの?」「ネイティブでしょ?」「日本人学校?なにそれ?」「大学でなにを?地理...学?」
「山小屋ってなに?どこにあるの?高いの?」

そしてようやくたどり着いた本題に入った時「平尾さんはxxな方なんですね。」なんて言われると、「本当はそんな簡単な話じゃないんだけどな」と思いつつも笑ってごまかしてしまうこともあります。

そう思って何年も前に作品にしてみたこともありました。

今改めて見てみると、至らないところが多々あります。ただ、当時から自己紹介に対する苦手意識の裏側にあるものはなんなのかという疑問について、考えていたのではないかと思います。人に対してあやふやにしてきたものが何なのか、いつからか自分でもなんなのか分からなくなったのかもしれません。

そんな中、自分の原点、子供時代を思い返してみると、10年も過ごしたロサンゼルスのイメージは「車窓」しかありませんでした。

ドアガラスの向こう側の世界を自分で見てみたい。

それがロサンゼルスに戻ってきた理由であり、写真を撮る続ける理由なのかもしれません

 

次回からは写真付きでお送りしたいと思います。